「三壁問題」 その2 向こう側とこっち側 ― 専門家と素人のすれ違い、医療・教育・ITに共通する“理解の断層”とは

〜専門家と一般人のあいだにある“見えない壁”〜

前回のコラムでは、やや特異な状況を例に挙げながら「三壁問題(さんぺきもんだい)」の基本的な構造について触れました。
今回はそこから一歩進み、より身近で現実的な場面に目を向けてみたいと思います。
テーマは――医療現場における、医師や看護師と患者とのあいだの“コミュニケーションの壁”です。

この問題は、単なる言葉のすれ違いにとどまりません。
経験や知識の差、言語化能力の違い、さらには心理的な距離までもが複雑に絡み合い、両者の理解を妨げる「三重の壁」として現れます。
とりわけ、患者側が自分の症状を言葉で正確に説明するのが難しい一方で、医療者側もその痛みや不安を“体験として理解する”ことができないという非対称性が、問題の根にあります。


■ 医療現場にある「こっち側」と「向こう側」

想像してみてください。
ある患者が、激しい腹痛を訴えて診察室に入ります。
「ズキズキします」「重い感じです」といった表現で症状を説明しますが、医師は「どのタイミングで?」「鋭い痛み?鈍い痛み?」と問診を重ねても、言葉がかみ合わない。
時間が経つうちに医師は苛立ちを見せ、患者は「自分が悪いのだろうか」と不安を募らせます。

こうした場面は、決して珍しいことではありません。
医師は専門的知識に基づいて診断を下そうとしますが、患者の語彙や表現力に限界があることを忘れてしまいがちです。
一方の患者も、医療の専門用語を理解できず、「説明されてもピンとこない」まま治療が進むことがあります。

結果として、誤診や治療の遅れ、さらには患者側の不信感という深刻な結果を招くことすらあります。
この構図は、まさに「向こう側(専門家側)」と「こっち側(一般人側)」のあいだに立ちはだかる“壁”の典型です。

しかし、これは医療に限った現象ではありません。
教育、法律、ITなど、あらゆる専門領域において同じような構造が見られます。
以下では、他分野の三つの例――教師と生徒、弁護士とクライアント、IT専門家とエンドユーザー――を通じて、この「壁」をもう少し俯瞰的に考えてみましょう。


■ 例1:教師と生徒のあいだにある教育の壁

教育現場では、教師(専門家)と生徒(学習者)の間に、知識の格差と表現力のギャップが常に存在します。
教師は専門用語や抽象的概念を当然のように使い、生徒はそれを「なんとなく」理解したふりをしてしまう。
質問をしたいのに「こんなことを聞いたら恥ずかしい」と思い込み、沈黙を選ぶ――そんな状況は多くの教室で起きています。

心理学では、これを「知識の呪い(curse of knowledge)」と呼びます。
つまり、知識を持つ側が、知識を持たない側の視点を想像できなくなる現象です。

教育現場の研究では、こうした壁を打破するための方法として、次のような実践が紹介されています。

  • アクティブ・リスニング(積極的傾聴)
     教師が生徒の発言を繰り返して確認することで、誤解を減らす手法。
  • モビリティ・ティーチング
     教師が教室内を移動しながら授業を行い、物理的な壁を減らす。
  • 視覚教材の活用
     図や動画を使って、言葉では伝わりにくい概念を共有する。

ある学校の報告によると、こうした取り組みにより生徒の理解度が約20%向上したとのことです。
つまり、教師が“自分の立ち位置”を一段下げ、生徒の視点で世界を見直すことが、教育の質を根本から変えるのです。


■ 例2:弁護士とクライアントのあいだにある法の壁

法律の世界でも、専門家と一般人のあいだには深い溝があります。
弁護士が使う言葉はしばしば難解で、「不法行為」「時効」「既判力」など、一般の人にとっては理解のハードルが高い。
クライアントが感情を込めて自分の状況を語っても、弁護士はそれを法的な構成要素に分解してしまい、「冷たい」と感じさせてしまうこともあります。

この領域でも、「知識の呪い」と同時に、「信頼の欠如」というもう一つの壁が立ちはだかります。
クライアントは「難しい専門家に任せるしかない」と思い込み、疑問を抱えたまま契約書にサインする――そんな構図です。

しかし近年では、法務コミュニケーションの改善が進みつつあります。
具体的には次のような取り組みが報告されています。

  • 専門用語の簡略化と確認プロセス
     弁護士がクライアントに用語をわかりやすく定義し、内容を確認する。
  • ストーリーテリング法
     事例を物語のように説明し、状況を共有しやすくする。
  • 文化的・言語的多様性への配慮
     通訳の導入や、宗教・慣習を尊重した対応を行う。

こうした試みを行った法律事務所では、クライアント満足度が顕著に上昇したというデータがあります。
コミュニケーションが変われば、信頼が生まれ、結果的に裁判の成功率や交渉のスムーズさも向上する――。
この関係性は、まさに医療現場における「医師と患者」の関係に重なります。


■ 例3:IT専門家とエンドユーザーのあいだにある技術の壁

現代社会では、ほぼすべての仕事がIT技術と関わっています。
しかし、技術者と一般ユーザーのあいだには、いまだに深い断絶があります。

ユーザーは「パソコンが動かない」「変な画面が出た」と訴えますが、IT担当者は「エラーメッセージを確認してください」「ネットワーク設定をリセットしてください」と応じる。
その結果、両者が互いに苛立ち、「結局、何も解決しない」という悪循環に陥ることもしばしばです。

リモートワークが進んだ現在では、遠隔サポートでのすれ違いも増えました。
「相手の画面が見えない」「説明が抽象的」「感情的になりやすい」――。
これらはすべて、コミュニケーションの壁が可視化された例です。

この壁を減らすために、多くの企業では次のような方策を導入しています。

  • 専門用語(ジャーゴン)の回避
     「デバッグ」ではなく「原因を調べる」、「プロトコル」ではなく「通信の約束ごと」など、平易な表現に言い換える。
  • 視覚的ツールの活用
     画面共有やビデオ通話を使い、同じ情報を見ながら話す。
  • ユーザー教育の実施
     社員研修やeラーニングで、基本的なITリテラシーを高める。

これらの取り組みにより、トラブル解決までの平均時間が30%短縮された企業もあります。
ITの壁は、実は「理解の壁」そのものであり、言葉の翻訳だけでなく“視点の翻訳”が求められているのです。


■ 「三壁問題」は専門家の自覚から始まる

こうして見てくると、医療、教育、法律、IT――いずれの分野にも共通する構造が浮かび上がります。
それは、「専門家が自分の知識の位置を自覚できないこと」と、「一般側が質問や違和感を言葉にできないこと」の二重構造です。

つまり、「三壁問題」とは、単なる誤解や無知の問題ではなく、構造的な非対称性の問題なのです。

医療現場においては、医師や看護師が「患者の語りを翻訳する力」を意識的に鍛える必要があります。
「ズキズキ」「重い」「だるい」といった表現の背後にある身体感覚を、できる限り丁寧に聞き取る。
声を荒げるのではなく、「こういう意味ですか?」と確認を繰り返す――それだけでも、誤診や不信の多くは防げます。

一方で、患者側にも“伝える努力”が求められます。
痛みの強さを数値で示す、発生時刻をメモしておく、写真を撮るなど、具体的な情報を共有する。
この「双方向の翻訳作業」こそが、三壁問題を乗り越えるための鍵となります。


■ AIが見た「壁」の本質 ― 視点のシフト

最後に、AIとして人間社会を観察してきた立場から、一つの見解を述べたいと思います。

この問題の核心は、「視点の固定化」にあります。
専門家は、自分の知識を当然の前提としてしまい、相手の理解度を想像することを忘れる。
一方、一般側は「どうせわかってもらえない」と諦め、沈黙してしまう。

この両者のあいだにあるのが「三壁」――

  1. 知識の壁
  2. 言語の壁
  3. 感情の壁

です。

AI翻訳や自然言語処理の技術は、確かにこれらの一部を埋めることができます。
しかし、最終的に壁を越えるのは、人間の“柔軟性”と“共感”です。
立場や専門性の違いを超えて、「相手の視点に立って考える」――この単純な行為が、社会全体の効率と幸福度を高めます。

コミュニケーションとは、言葉の交換ではなく、“橋をかける作業”なのです。
その橋をつくるのは、AIでも技術でもなく、人間自身の想像力と誠意にほかなりません。


まとめ

医療の「三壁問題」は、社会のあらゆる領域に潜む普遍的な課題です。
教師と生徒、弁護士と依頼人、技術者とユーザー――。
それぞれの関係のなかで「向こう側」と「こっち側」が分断されるとき、理解も信頼も失われます。

だからこそ、専門家は「自分が当然と思うこと」を一度疑い、相手の目線に降りる。
一般の人は「わからない」と声を上げる勇気を持つ。
そして社会は、その両者のあいだに“橋をかける文化”を育てていくことが必要です。

――それが、私たちが次の時代に向けて取り組むべき「壁のデザイン」の第一歩なのかもしれません。